意思判断能力を失うリスク

高齢化社会が進む中で、人が認知症等により意思判断能力を失ってしまうことのリスクが顕在化してきました。
具体的には、本人の意思判断能力が不十分と見なされることにより法律行為を行うことが出来なくなるリスクです。
意思判断能力とは、法律上の判断において自己の行為の結果を判断することができる能力とされており、その能力を失ってしまった人は契約行為に伴う自身の権利義務が理解できませんので、本人はもとより契約の相手方にも損害を与えることになり兼ねません。
本人が意思判断能力を失ってしまうと積極的な相続対策はもちろんのこと、財産の管理や介護サービス契約、施設への入所といった本人にとって必須の法律行為すら行えないという深刻な事態に陥ります。
意思判断能力のない人とは契約を結ぶことができないというコンプライアンス意識の高まりと共に表面化してきた、意思判断能力喪失に伴うリスクとその対策について整理をしてみたいと思います。

1.意思判断能力とは

意志判断能力とは、本人が自らの行為の結果を理解し意思決定できる能力を指します。
一般的には7歳から10歳くらいの精神的能力とされていますが、行為によって必要とされる意思判断能力は異なるため、実際の意思判断能力の有無については個別の事案ごとに具体的に判断されるとされています。
例えば不動産の売買契約であれば、売買代金を受け取る代わりに不動産の所有権を引き渡すことが基本的な権利義務関係となりますが、その法的な効果を正しく理解できる能力が不動産の売買契約における意思判断能力となります。

2.意思判断能力を失うと出来ないこと

仮に人が意思判断能力を完全に失ったとしたら、あらゆる法律行為が出来なくなります。
あらゆるというのはスーパーで日用品を購入するといったことなども含めたすべての行為を指します。
現実的には意思判断能力は徐々に衰え、日によって時間によって意識が明晰なこともあればその逆もあり、その時々で正常であったり正常でなかったりという状態が長く続きます。
しかし相続対策の様に高度で長い時間のかかる法律行為を行うことが出来る意思判断能力には、かなり高いハードル(限りなく正常に近い状態)が要求されると考えるのが普通です。
認知症等の症状が出てしまってからでは、金融機関から借り入れを起こしてアパートを建築し賃貸運営をするといった複雑な相続対策を行うことは実質的にはかなり難しいと考えた方がよいと思われます。

3.意思判断能力喪失時に利用できる制度

意思判断能力を失ってしまい法律行為の遂行に限らず日常生活等にも支障が生じてしまう場合には、家族等の近しい関係にある人が本人を支援する必要が生じます。
現在、本人が意思判断能力を喪失した時(あるいは喪失しつつある時)に採ることができる制度は以下の通りとなります。

認知症等 採れる制度

成年後見制度は、本人の財産管理と身上監護(生活や療養看護)を目的とした制度で、後見人が代理権に基づき本人に代わり法律行為を行います。
成年後見制度には家庭裁判所が審判を行う「法定後見制度」と、本人が自ら後見人を選任する「任意後見制度」があります。
法定後見は本人の状況に応じて「後見」、「保佐」、「補助」の3種類に分かれますが、現在は最も程度の重い人が対象となる「後見」が主流となっています。
成年後見制度の基本的な考え方は「本人の権利擁護」であり、家族全体の利益ではなくあくまでも本人の財産や権利を守ることに主眼が置かれているため、柔軟な財産管理(賃貸不動産の建築や生前贈与といった相続対策や金融資産の運用等)は難しく、特に自宅の売却などには家庭裁判所の許可が必要になるなど制度の硬直性も指摘されています。
一方、任意後見制度では財産管理等の方針を本人が元気なうちに、自らが選んだ後見人予定者との後見契約で定めることで意思を反映しやすくなりますが、それでも任意後見人も家庭裁判所や後見監督人の監督下にあるため柔軟な管理を行うことは簡単ではありません。
また任意後見制度では、本人が行った法律行為(物品の購入など)の取消権が認められていない点にも注意が必要です。
民事信託(家族信託)は本人が自分の財産について家族等と信託契約を結び、契約に基づき財産を運用する制度です。
後見制度と異なり、契約を結んだ時点から効力が発生し、信託受託者(運用を任された人)が自分の名義で法律行為を行うため、各種相続対策など従来の後見制度では難しかった柔軟な財産の運用が可能になるメリットがあります。
但し、財産の取り扱いに特化した制度であるため、後見制度の目的の一つである身上監護を行うことはできません。

4.意思判断能力の判断方法

意思判断能力の有無は画一的、形式的に判断されるものではなく、あくまでも個別具体的な事案に対して本人が理解しているか否かで判断がなされます。
認知症を発症しているからといって全ての判断能力を喪失しているわけではなく、理論上は完全に意思判断能力を失っている人でも、その時点(瞬間)でその事案に関してして明瞭な意思表示を示すことが出来れば、その事案に関する意思判断能力は有効ということもあり得ます。
その意味では本人の意思判断能力の有無をどのように確認するかという点が非常に重要になりますが、実務的には主に以下の内容が意思判断能力の有無に関する判断材料となります。

1)面談

本人との面談によりごく普通に会話が成立するのかを確認し、行おうとしている法律行為に関する理解に齟齬が無ければまずは安心です。
不動産取引の場合には、売買契約と決済の間にタイムラグが生じることが一般的ですので、売買契約直前および決済直前の2回は必ず面談による意思判断能力の確認を行います。
(決済時には登記手続きを受任する司法書士が立ち会うのが一般的ですので、司法書士にて本人確認と共に意思判断能力の確認を行います)

2)面談記録

医師や弁護士、司法書士といった専門職による具体的な面談記録の他、家庭や病院、介護施設における日常的な会話の記録(家族の記録、医療日誌、ケアマネージャーの記録等)により、本人の考え方や日頃の言動を確認し、行おうとしている法律行為の内容との整合性を判断します。
時にはビデオ撮影により記録をすることも検討します

3)日記や手紙

本人が判断した内容が、日頃の言動等に合致しているかどうかは非常に重要な判断材料となります。
これらを知る手段として本人が付けている日記や他人に出した手紙等の記録が有効になります。

4)専門家によるテスト

医師などによる簡易的なテストツールを利用し、客観的な意思判断能力の程度を把握します。(長谷川式簡易知能評価ツール等)

5)医師による判定

医師が作成した意見書、鑑定書は有力な判断材料となります。
必ずしも精神科医によるものである必要は無いとされていますが、専門外の医師の中には意見書等を作成することを嫌がる先生もいますので、事前によく相談をする必要があります。

6)公正証書の作成

遺言書や任意後見契約を公正証書で作成する際には、公証人の立会いのもとで行います。
公証人は本人が意思不明瞭であれば書類を作成しませんので、公証人という公的な第三者が立ち合いの上作成した書類はその時点での意思判断能力について判断根拠の一つとなります。

これらの内容はあくまでも個々の判断材料に過ぎず、証拠としての採用は総合的な判断となります。
遺言作成時に本人に意思判断能力があったのかどうかなど、本人の意思判断能力について疑義が生じた場合には、最終的には司法の場に判断を委ねる以外に方法はありません。
言い方を変えれば本人の意思判断能力について最終的に結論を下すことが出来るのは家族や医師ではなく、唯一裁判所だけということになります。

5.意思判断能力が無い人が行った法律行為

意思判断能力を欠く状態で行った法律行為は無効となります。
但し、その判断について疑義が生じた場合には、最終的には司法の判断に拠るしかありません。

6.意思判断能力喪失により行えなくなる相続対策

意思判断能力が無い者が行った法律行為は無効となりますので、当然以下に挙げる様な相続対策も行うことは出来ませんし、無効となるものもあります。

  • 不動産売買契約、建物建築に関する請負契約、賃貸借契約の締結
  • 金銭消費貸借契約の締結
  • 遺言書の作成
  • 遺産分割協議への参加(自らが相続人の場合)
  • 生命保険への加入
  • 生前贈与
  • 養子縁組
  • 任意後見契約、民事信託契約の締結
  • 預貯金の引き出し

各種相続対策は相続人にとって重要な影響を与えるものですので、必ずしも相続人全員が賛成する内容とは限りません。
本人の意思判断能力が覚束ないときに行った相続対策については、本人の意思判断能力の喪失を理由に法律行為の無効を主張する相続人が現れる可能性がありますので、意思判断能力があったことを証明する客観的な事実(医師の診断書や本人との会話の記録など)を併せて備えておく必要があります。


意思判断能力はあらゆる法律行為の前提となります。
契約当事者はそれぞれの立場でリスクを負いますので、客観的にみて本人に意思判断能力があると認められない限り契約をすることは出来ません。
例え本人や家族が「私は(おじいちゃんは)大丈夫です」などと言っても、契約の相手方はそれを鵜呑みにして取引を進めるわけにはいかないのです。
そして万が一、意思判断能力が失われていると判断された場合には、例えそれが契約の直前であっても別の方法を考えるしかありません。
現在の制度では、意思判断能力を失ってから採ることが出来る手続きは法定後見制度しかありませんので、家族等の関係者が成年後見人の申し立てを行うことになりますが、実際に後見人が就任するまでに半年位はかかりますし、そもそも後見人は本人の財産を守ることを主たる役割としているため予定していた契約行為に同意してもらえるかも不明です。
(一般的に、後見制度と相続対策は「守り(消極的)」と「攻め(積極的)」という真逆の関係で、かなり相性は悪いという認識は持っておく必要があると思います)
また意思判断能力を失う前に本人が準備をしておくことで、任意後見制度の利用や民事信託(家族信託)という方法もあります。
但し、いずれの方法も万能ではなく、使い勝手の良いところと悪いところがありますので、制度の内容をよく理解した上で取り進める必要があります。。
後見制度と民事信託(家族信託)については項を改めて詳しくご説明をしていますが、いずれにしても本人が認知症等によって意思判断能力を失うということは相続対策に限らず全ての生活の土台を揺るがす一大事であり、それが今や深刻な社会問題になりつつあるということをご理解をいただけたらと思います。